全都道府県訪問#43 沖縄県#4(今帰仁城跡・座喜味城跡)

今帰仁城跡・大隈の寒緋桜

 第2日目は晴れで、読谷村のリゾートホテルからは、残波岬(ざんぱみさき)につながる海岸線がくっきりと見渡せました。
 まず沖縄本島北部西海岸の本部(もとぶ)半島の北側、今帰仁村にある今帰仁城跡(なきじんじょうあと)に向かいました。途中で沖縄唯一の温泉・山田温泉のあるルネッサンスリゾートオキナワの横を通過しました。旅では温泉に必ず入ることにしているのですが、今回の沖縄の旅では叶いませんでした。名護市から本部半島に入ると、寒緋桜(かんひざくら)〔沖縄では緋寒桜(ひかんざくら)のことを通常こう呼んでいるようです〕で有名な八重岳も本部半島にあるため、ドライブ中にちらほらと桜の花を観かけました。最大の驚きは、何と今帰仁城跡では満開の寒緋桜(大隅に沢山ありました)が出迎えてくれたことでした(写真)。今帰仁城跡のパンフレットの説明は次のとおりです。

 今帰仁城跡(別名北山城)は、いつ誰によって築かれたかは不明なところが多く定かではありませんが、発掘調査の成果から13世紀頃には城造りを始めたことが分かっています。
 14 世紀頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山鼎立の時代」でした。北山王は沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。しかし1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志(しょうはし)によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになります。

 今帰仁城跡の大庭(うーみゃ)からは、広々とした東シナ海を見渡すことができ、晴天なら沖縄本島北端の辺戸(へど)岬はもとより、遠く与論島まで望めるとのことです。また城跡には、沖縄を代表する2種類の樹がありました。モモタマナとデイゴです。モモタマナは別名コバテイシ(枯葉手樹)、また方言ではクワディーサーとも呼ばれ、実はアーモンドに似た風味で食用になり、広い日陰を提供する樹として親しまれているようです。デイゴ(梯梧)は沖縄の県花で、別名エリスリナとも呼ばれ、梅雨が明ける頃の5月に赤い花を咲かせ、材は漆器の木地としても利用されるそうです。今帰仁道の駅で、昼食としてソーキ(三枚肉のチャーシュー)そばを食べ、今帰仁産唐辛子を泡盛今帰仁酒)に漬けた「そ〜れ」という香辛料を買い求めました。この香辛料は、沖縄では一般的には「コーレーグース」と呼ばれている家庭の食卓常備のスパイスだそうです。
 次に宿泊しているホテルと同じ読谷(よみたん)村にある座喜味城跡(ざきみじょうあと)に向かいました。今回は沖縄自動車道を利用しましたが、割と空いてて、料金も安かったような気がしました。座喜味城跡の案内板の説明(抜粋)は次のとおりです。

 座喜味城は、15世紀の初頭築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。護佐丸は当初、座喜味の北東約4㎞にある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中山尚巴志の北山城攻略に参戦、北山攻略後は戦後処理のため一次北山城にとどまったといわれ、その間に座喜味の地へ築城を開始したという。城跡は座喜味部落北側の小高い丘、標高120m余りの名護層からなる台地を石灰岩の切石積(きりいしつみ)で取り囲んで築かれており、城は2つの郭からなる連郭式(れんかくしき)の形態になっている。城郭内の面積は約4,012.51㎡で、沖縄のグスクとしては中規模である。
      (中 略)
 城跡第2次世界大戦において、一の郭内に日本軍の高射砲陣地が築かれ、。戦後も米軍のレーダー基地が建設されたが、整備の始まった翌年返還された。城壁は 1982年に修復を完了した。城壁の上に立つと首里那覇をはじめ本島西側本部半島や東支那海に浮かぶ慶良間諸島久米島伊江島・伊平屋諸島が眺望出来る要害の地にある。

 実に戦争に翻弄された世界遺産と言えそうです。そう言えば時々返還闘争でニュースに取り上げられる「ゾウのオリ(キャンプ・ハンザー)」と呼ばれる楚辺通信所も近所にありました。

  • 大戦にも 翻弄された グスク群